今日は、なぜ私たちは英語を学ばないといけないのかについて、代表・石田が今考えていることをつらつらと綴ってみます。
私が英語教育に対してどう向き合っている(向き合おうとしている)のかを明らかにすることで、塾選びの判断材料の一部を提供できればと思っています。
英語(あるいは外国語)を学ぶ目的は、大きく分けて2種類あると思います。
1つは、世の中を渡っていくための「武器」を手に入れることです。もう1つは、個人の生き方、あるいは「自分が世界とどう向き合うか」というスタンスを形成するための素材を手に入れることです。
どちらの目的も重要ですが、私個人としては、後者の目的がより高尚で重要度が高いと考えています。
世渡りの武器としての英語学習
多くの人が、こちらの目的を入り口として、英語学習を始めるのではないでしょうか。
学校の成績のため、受験を突破するため、職場で活躍するため、年収を上げるため…。英語を運用する力があれば、今の日本社会で一般的に「成功者」と見なされるステータスを手に入れやすくなります。例えば、英語資格試験のハイスコアがあれば入試で優遇してくれる大学は沢山あります。あるいは、英語を読んだり話したりできれば、高収入が約束されたグローバル企業に就職できるかもしれません。
実際、社会で生きていくためには経済力が必要です。生まれが裕福でない人でも、スキルアップのチャンスを掴み取って(裕福な人ほど学びのチャンスに恵まれやすいという事実はありますが…)一生懸命勉強すれば、社会的評価の高い学歴や職歴を手に入れ、結果的に経済的な不安を解消できるかもしれません。
このように、スキル獲得目的での英語学習も、生きていくために必要になる場合があります。生徒一人一人が自分の人生を切り拓くための力を身につけられるようという願いを込めて、Camphoraでは英語資格試験対策や受験対策英語の指導を行います。
人格形成の過程としての英語学習
教育業を生業とする一人の人間として、私がより大切にしたいのは、「英語学習を通じて生徒がどう成長(変容)するか」という観点です。
英語が義務教育に取り入れられているのは、英語が国際社会の共通語だからです。そのような動機づけで英語教育を施すとき、「英語の習得を通じて一人一人の学習者の内面がどのように変容するか」という側面は背景化されてしまいます。
しかし、個々の学習者の目線に立つと、英語を学んだことをきっかけに「自分の世界」がよく分かるようになったり、広がったりする瞬間が見えてくるはずです。
私は学生時代に言語学を学びました。特に関心を持ったのは英語学や認知言語学です。そこで学んだのは、英語と日本語では「世界を分節するやり方」が異なる部分があり、一つの出来事や情景を英語でも日本語でも表現できるということは、「考え方の切り替え」ができるということなのだ、ということでした(日英語の「文法の違い」とその動機としての「考え方の違い」については、また日を改めて論じます)。異なるものの見方を理解することは、「自分の外の世界」に生きる他者が見ている世界に思いを馳せることです。言語を学ぶこと・言語について学ぶことは、他者に対する寛容性や想像力を育むのです。
「母語の世界」に閉じこもらず、「別の言語」を介した世界にも出会うことができた時、人は「これまで当たり前だと思って疑わなかったこと」を客体化し、俯瞰して眺めることができるようになります。このような視点の切り替えができる力は、「自分自身がどのように世界と関わっていくか・向き合っていくか」を積極的に考える原動力になります。
少し大げさな話をしてしまったので、もうちょっと手近な「英語で人が変わる例」を考えてみましょう。言語について専門的に学ばなくても、英語などの外国語を学習するプロセスにおいて、心が震える感動に出会うことは誰にでもあります。日本語を話さない人と英語で交流する、英語で本を読む、英語の歌を味わう、といった学習活動は、当事者に何らかの発見と内面的変化をもたらします。価値観の異なる人、自分のそれとはまったく異なる慣習の中に生きている人と出会う。そんな人たちが創造した作品に触れる。このような経験から、「文化の相対性」に気付いたり、逆に「人間の普遍的な部分」に気付いたりできます。その気づきは、自分の内面の変化・成長・成熟です。
子どもも大人もこのような自己変容の物語を紡ぐ一つのきっかけとして英語(や他の言語)の学習を楽しめる世界であってほしい、というのが言語教師としての私の一番率直な思いです。
Camphoraでは、この後者の目的を忘れることなく、心に響く英語教育を追い求めていきます。